ブルゴーニュのスター生産者。1976年にフィリップ氏が20代にして父から1.8haの畑を相続。ワインに対して情熱的かつ極めて真面目、ディテールに執着する典型的な天才肌です。ワインは魅惑的な果実のアロマとシルキーなタッチで、若いうちから美味しいスタイルゆえ「テロワールというよりシャルロパンのワイン」と言われることもありますが、熟成によりその真価が発揮され、美しいバランスとエレガンス、フィネスを見事に表現します。ドメーヌの冒険はさらに続いており、2007年にはボーヌに畑を新たに取得した他、シャブリでのワイン造りに着手し、手がけるアペラシオンは35に及びます。
ワイン造り|栽培は除草剤・化学肥料を用いないリュットレゾネ。ブドウの質そのものがその後の醸造、そしてワインの質を決定すると考えるため、極力自然の力を邪魔しないように、かつブドウ樹が自力で低収量で凝縮味のある果実を産するように心がける。収穫は遅摘み派。完熟ブドウを入念に選果し、低温でのプレマセラシオンを長く行う。樽熟成は新樽比率が高く長め。オリ引きは瓶詰め直前の1度だけ行い、そのため抜栓したてのワインにはCO2を感じることもある。フィルターは軽め。|フィリップ・シャルロパンはピノ・ノワールの神様と呼ばれるアンリ・ジャイエから指導を受けていた一人で、ジャイエから愛弟子としてかわいがられていたと言われています。そのため、ワイン造りにおいては師であるジャイエの影響が色濃く見られます。完熟葡萄の収穫はもちろんのこと、厳しく選別した果実は除梗した後、一週間に及ぶ低温のマセラシオン発酵が行われます。その後樽で熟成されますが、新樽比率が高いこともその特徴として挙げられます。
厳しい評価で知られるル・クラスマンは|フィリップ・シャルロパンについて|フィリップは時代の先端を行く醸造家で、色やボディを抽出する技術、贅沢な樽香の付け方、テクスチャーを洗練させる技などでは誰にも負けない。だがこのドメーヌを見ているとそうした技術に秀でた醸造家が造るワインでも、土自体にものいう力がある場合には、それがワインに表れるものだということがよくわかる。|つまり、どのワインにも畑の個性が十分に出ているので、この酒蔵を一巡すれば、ブルゴーニュワインの多様性と、複雑でわかりにくい呼称を手っ取り早く頭に入れることができるわけである。
ワイン王国の特集記事より|テロワールの個性を生かす仕込み技|ある若い酒造り屋が、名うての酒造りの銘酒に自分の造ったワインを見てもらった。「とてもいい。だが、果梗が多過ぎる」と叱られて、翌年、また新酒を利てもらった。「前より良くなった。だが、まだ果梗が多い。」さらに翌年も批評は辛かった。ついに栄光の1990年、「おぬし、やっと酒造りというものがわかったな」と褒められた。若い造り手は言うまでもなく56年生まれのフィリップ・シャルロパン、導師はアンリ・ジャイエ。クライヴ・コーツの『コート・ドール』に出てくる挿話である。|フィリップの父、アンドレは孤児でアリエール・コートで育てられ、成人してジュヴレ村に移り、何軒かのドメーヌで働いていた。自分のドメーヌを持ちたくて、稼いだ金を一生懸命ため、あちこちの畑を少しずつ買い取った。77年に死んだとき、フィリップに約1.8ヘクタールの畑を残したが、そのときフィリップは22歳だった。以前から近所のドメーヌで働いて酒造りの技術を身に付けて、父のところに戻ってきた矢先だった。独り立ちできる力量は備えていたからドメーヌを継いだが、畑が少なすぎるので、もっと拡張するのが悲願だった。妻ソニアとともに、まずマルサネ村で畑を増やし、その稼ぎでやっとモレ・サン・ドニ村のグラン・クリュ、クロ・サン・ドニの一面を買うことができた。売ってくれたのはアミオ・ベルタン家だった。その後、シャンボール・ミュジニィ、ジュヴレと畑を買い増した。88年になって、彼の人柄を見込んだラトゥール一族のマダム・ジョスリーヌ・バロンからル・シャンベルタンの0.21ヘクタールの区画を任されるようになった。そして、ジュヴレ村の中でも74号線沿いにあるシャルル・キンラードの古いセラーを買い取り、これを改装して名実ともにジュヴレのドメーヌになった。